うさこ観覧記

またブログ始めました。展覧会観て自分のために何か残さないとすぐ記憶が流れていくから。

心待ちにしてた展覧会「浅井忠と京都遺産」

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浅井忠の京都遺産展のweb内覧会に行き、後日改めて講演会にも行ってきました🏃写真は内覧会の時に許可を得て撮影。これずっと楽しみにしてた展覧会なのよね。 #浅井忠 #美術工芸 #泉屋博古館分館 👈Instagram

ブログでは、泉屋博古館分館で開催中「浅井忠の京都遺産 京都工芸繊維大学 美術工芸コレクション」展心待ちの理由、本展の様子、そして京都工芸繊維大学美術工芸資料館並木誠士氏講演会「浅井忠とデザイン教育の夜明け」で聞いた話を交えて。

1.きっかけは武田五一展とセラミックスジャパン展

先月までLIXILギャラリーで開催されていた「武田五一の建築標本 近代を語る材料とデザイン」展。ここで京都工芸繊維大学(以下、工繊大と表記)の教材について知る。

初代学長の中澤岩太は開学(1902年)準備のため武田五一をヨーロッパに派遣、武田はたくさんの建築標本を持ち帰った。さらに中澤は当時の芸大からパリ万国博覧会(1900年)視察に派遣されていた洋画家浅井忠を工繊大図案科にスカウト(ここで浅井忠登場!そして本展覧会につながる)、浅井忠も工繊大のためにアールヌーヴォーのポスターや陶磁器など教材になるものをたくさん持ち帰る。武田五一展ではこの部分は紹介のみで展示はなく、否応なしに浅井忠は一体どんな教材を持ち帰ったんだろうの興味が。

また、今年の初めに見た松濤美術館「セラミックス・ジャパン 陶磁器でたどる日本のモダン」展では浅井忠とアールヌーヴォーの展示があり、ここでも興味を持った。

そしていよいよ本展覧会「浅井忠と京都遺産」。

今年観覧した2つの展覧会で興味を持ったそのものずばり、浅井忠が持ち帰った教材、その後の作品、浅井忠と京都の美術工芸との関わりの展示だ。

更に、浅井忠は洋画から何故図案の方に?も気になるところ。

 ↓ 浅井忠の描いた《中澤岩太博士像》と武田五一図案の《百合花模様花瓶》

会場の様子は内覧会にて特別に許可を得て撮影

 (メモ:フェノロサ岡倉天心、工芸ではワグネルと中澤岩太)

 

2.工繊大のコレクション

工繊大のコレクションの成り立ち。なんと実際にアールヌーヴォーが大流行のパリで、当時の日本人がいいね!と思ったものを教材用に持ち帰ったという。さらに洋画の浅井忠が選んだという。なんてリアルタイムな教材、なんと贅沢で貴重なコレクションなんだろ。

展示室の最初にミュシャのポスター。今の私たちが見てもアールヌーヴォー素敵と思う、それと同じように浅井忠もこれは!と思って最先端のポスターを学生たちの教材にしたのだ。よく見ると折り目が入っていて、船便のため小さく畳んで持ち帰ったそう。陶磁器も小さめなものが多く、やはり船便のことを考えてとのこと。大変な思いで持ち帰った教材。光っていたりメタル調だったりするちょっと変わった釉のものが多いのも図案研究とともに釉薬研究のための教材だから。それにしてもどれも素敵だしなんとなく愛らしい。今の私たちの感覚と通じるものが。

 

 

 渡仏した後変化した浅井忠の洋画作品と晩年この制作のために過労死?の大作《武士山狩図》も展示。また、同時期の住友家の所蔵品との比較などもあり、展示室が実質2室なのに見ごたえある。

 

3.浅井忠の図案

浅井忠の図案、この本を↓知っていたし、セラミックスジャパン展でも浅井忠図案の小皿(今回も展示あり)を見ていたので、以前よりかわいいなあもっと見たいなあと思っていた。

浅井忠の図案―工芸デザインの革新 (近代図案コレクション)

浅井忠の図案―工芸デザインの革新 (近代図案コレクション)

 

特に動物の図案。今回講演会のスライドで見た動物の小皿などかわいくてカラフルで工繊大の学生さん達にも人気だそうで、今見ても新しいしかわいい。

会場では躍動感あふれる猪がデザイン化されこんな蒔絵箱に!

同じく講演会のスライドで紹介された図案帖の中に、黒猫白猫の連続横長模様やカエル模様、花と蝶の連続模様など、今これをマステにしたら絶対売れるし絶対欲しいと思うような図案があった。デザインとして完成されていてかつかわいらしい。余談だけど工繊大で黒猫白猫やカエルの浅井忠オリジナルマスキングテープ作ったら人気でると思う。この展覧会でも出して欲しかった!

大津絵デザインも愛らしい。

京都に移ってからは日本画も描き、アールヌーヴォーと琳派風な文様や(相性よさそう)日本のかわいらしさがデザインになって具現化する。

 

4.浅井忠と京都

講演会でなるほどと思ったのは、京都にとって明治維新と近代化は天皇の東幸であると。そんな風に考えたことなかった。現在の視点で見れば、京都の工芸はそれまでの伝統産業でやっていけばよく、何も新しいデザインを追い求める必要ないのにと思えるけれど、当時の京都の人たちは、それまで伝統産業を支えてきた公家や天皇家が東へ移り大変な危機感があり、新しい産業を生み出す必要性にかられていたのだ。そして工繊大の設置要望となる。

浅井忠は工繊大の教授として図案科の指導をしただけでなく、京都の工芸家に図案を提供し新しい陶磁器や漆器を生み出そうとしていた(遊陶園、京漆園)。亡くなる年には自分の絵付け陶器を売るお店九雲堂も開店した。

しかし、急に亡くなってしまったこと、その後伝統模様への揺り戻しが来たりで、結局京都に新しいデザインが根付くことはなかった。講演会では、もし浅井忠がもう少し長生きしていたら京都の伝統産業も今と違うものになっていたかもというお話だった。

 ↓ 浅井忠《梅図花活》

最後に。

洋画家として渡仏して、本場の洋画に触れ、普通考えるとそれを吸収して自分の新しい絵画へ展開して行くのでは?何故図案の方に大転換?の疑問は。

アールヌーヴォーにそれだけ魅せられたから。デザインというものに魅せられたから。それと、パリに行ってみたら黒田清輝よりも旧派と言われたのに新派の黒田清輝さえも既に古くさく、もう新しい絵画の流れを追う気にはなれなかったのでは?という話だった。(メモ:浅井忠の亡くなった1907年にピカソアヴィニョンの娘たち)

展覧会の全体を見て、何故図案に大転換?は、デザインという新しい分野への好奇心と後進を育てたいという気概と京都に新しい伝統産業を作りたいという熱意、京都への深い肩入れだったんじゃないのかな、と思った。

 

 「浅井忠の京都遺産 京都工芸繊維大学 美術工芸コレクション」展は、泉屋博古館分館で10/13まで。

京都工芸繊維大学美術工芸資料館にも行かないと。